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【ドイツ旅行記】ユネスコ世界遺産の美しき街・ザルツブルグ

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ザルツブルクは、町の中心を南から北に流れる清流ザルツァッハ川の西側に位置し、ツェントルムと呼ばれる旧市街と、川の東側に位置する新市街とに分かれる。新市街には1606年に建てられたミラベル宮殿と庭園、1776年に創設された州立劇場、1898年建造の聖アンドレ寺院、1841年に大聖堂音楽協会として始まり、1914年に音楽院となったモーツァルテウム、(現在は国際モーツァルテウム財団の建物)、ザルツブルク・マリオネット劇団が公演されているミラベル・カジノがある。マカルト広場には、モーツァルトの住居(1774年旧市街の生家から転居)や、ドップラー効果で有名なクリスチャン・ドップラーの生家もある。マカルト小橋とシュターツ橋いずれかの橋で旧市街へ渡ると、モーツァルトの生家のあるゲトライデ通りはすぐ近くである。旧市街ではレジデンツ、すなわちザルツブルクを支配していた大司教の住居がある。レジデンツの東には2つの塔を持つドーム(大聖堂)があり、レジデンツ広場、さらにモーツァルト広場とつづく。ドームの南側には、大きなサンクト・ペーター寺院、その西隣には音楽祭に使われる祝祭大劇場、モーツァルトのための劇場(旧祝祭小劇場)、フェルゼンライトシューレ(岩壁に面した乗馬学校跡のコンサートホール)がある。町のほとんどどこからでも見える南の高台にはホーエンザルツブルク城がある。高台はメンヒスベルクという名の丘陵で、旧市街の南側を1.3キロメートルにわたって続く高さ約50メートルの高地をなしている(一番高い場所で標高508メートル)。この城は要塞として1077年に造られ、その後拡張工事が続き、レオンハルト・フォン・コイチャッハ大司教(在位1495-1519年)の時代に大きく拡張された。兵舎又は牢獄として利用されたが、外敵に占領された事がなく、ヨーロッパ中世のものとしては完璧に保存された希な例となっている。拡張工事は最終的には1681年に竣工して今日に至っている。城へは1892年に開通したケーブルカーで登る方法と、歩いて登る道とがある。この城からの眺望は市街地側の眺望と共に、ブルクホーフ(城の中庭)と言われる南側の眺望も美しくウンタースベルク山が綺麗に見渡せる。この風景はカレンダーによく利用されている。ケーブルカーの下の駅から東に行くと高台に1471年に完成したノンベルク尼僧院があるが、この尼僧院は古く紀元700年頃に創設されたものである。市内旧市街やその他の歴史的建築物は、ユネスコ世界遺産に「ザルツブルク市街の歴史地区」として登録されている。


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西暦紀元前1800年以前の新石器時代、既にヘルブルン山地、カプツィーナ、ラインベルクに人類の足跡が見られ、青銅器時代にイリュリア人がピンツガウやポンガウの渓谷で鉱石を採掘していたことが推測される。鉄器時代にはザルツブルクの人々は岩塩の採掘を行っており、その後のハルシュタット文明につながっている。ザルツカンマーグートのバート・イシュルの南52キロにあるハルシュタットでは、紀元前10世紀頃のケルト人の墓地と埋蔵品が発見され、高度な文明が築かれていた事が判明している。
紀元前14年、ローマ軍がアルプスを越えて侵入する。クラウディウス帝の時代には属州ノリクム(現在のオーストリア)の各地に都市が築かれ、ローマ文化の花が開いた。ザルツブルクの原型である古いケルト人の町はユヴァウムあるいはユリクムと呼ばれていたが、この町もローマ文化の影響を受けた。また、ユヴァウムはイタリアとバイエルンを結ぶ街道と、ヴェルスを経てリンツに至る街道の分岐にあたる交通の要衝ともなった。
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476年、ローマ人は侵入した東ゴート族を前にして撤退し、ノリクムを放棄。ユヴァウムはゲルマン民族により占領され略奪された。西ローマ帝国のゲルマン系雇兵隊長オドアケルの時代のことである。
696年、バイエルンのテオド大公は、ルーペルト司教の才覚を聞き及んで、植民を予定していたドナウ川中流域へのカトリック布教のためにルーペルトを招聘し、ザルツブルク周辺の領地(西はキームゼーから南はザルツァッハ上流)を寄進し、司教区管轄地とする事を認めた。ルーペルトはこの地にサンクト・ペーター修道院を創設した。ルペルトの名は Hruodpertus、Rupertus、Robert、St.Peter などと様々に記されているが、いずれにせよ初代ザルツブルクの司教つまりザルツブルク教区の領主ということになる。ザルツブルクは最初ザルツプルヒ(Salzpurch)と呼ばれていた。
ザルツブルクは798年に大司教区に昇格する。カランタニア地方を中心とするスラブ人地域への宣教活動を成功させ、アギロルフィング家歴代バイエルン公や諸貴族による土地寄進合戦によって、大司教領有地は南はドラウ川まで、西はツィラー渓谷とイン川まで、東はハンガリー(バラトン湖)まで拡大した。キリスト教と手を携えての東方への拡張は、907年にマジャル人との戦いで大司教テオトゥマール1世が戦死し、終焉を迎えた。
ザルツブルク最初のドームは774年に前期ローマ建築で建てられた。次の代の司教のヴィルギルが聖堂を建て、その後の図書館や学校の基礎となった。ザルツブルクの2度目のドームは1181年頃に後期ローマ様式の建築で造られた。アルプス以北では唯一の身廊が5つあるバシリカ式の建築でドイツ皇帝聖堂との混合形式である。領主司教がこのように優れた建築物を造る事が出来たのは、教会の所有地とハラインの岩塩採掘とタウエルンの金採鉱での収入が自由に使えたからである。
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サルツブルクは、ナポレオン戦争のさなかの1809年に一時期オーストリア帝国の支配下に入ったが、オーストリアがナポレオンに屈服したシェーンブルンの和約によってバイエルン王国に編入される。1816年、ウィーン会議の決議に従ってザルツブルクは最終的にオーストリアに併合される。1938年にはアドルフ・ヒトラーによるオーストリア併合があり、ザルツブルクは第二次世界大戦に巻き込まれ、市内各区とドームが爆撃を受けた。戦後、アメリカ駐留軍がザルツブルクに司令部を設置する。オーストリアは独立を回復し、ザルツブルクも現在に至っている。
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